観光王、油屋熊八

観光王、油屋熊八 油屋熊八は別府の観光王と称された人です。
1863年8月29日(文久3年7月16日)に伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)で生まれました。

熊八氏を紹介する書籍は多くありますが、以前NHKのテレビで熊八氏を紹介する番組があり、この内容をもとに記憶の範囲で足跡を紹介します。

熊八氏は手が大きいことを自慢していたようで、集合写真などでは手を開いて写っている写真が残されています。
自身の手形もありますが、検証した結果、大きいことは大きいようですが手形を押すときに、指先を伸ばしたたりした跡がみられるなど愛嬌もあったようです。
手の大きさを競う「全国大掌大会」を別府で開催し、相撲取りなども呼び寄せるなど、現在で言うところのイベントの先駆者でもありました。

アメリカに渡ったこともあり、とにかく器の大きい人で、言うことも大きく、ともすればほら吹き的な人とみられてもいたようです。

氏が別府に住むようになって目をつけたことは、昨今は外国からの旅行者が日本中を訪れるようになっていますが、戦前は東京と京都が中心で、地方まで旅行する外国人は少ない時代でした。そこに目をつけ、別府の温泉を活かす発想を思いついたようです。
アメリカからの旅行者が東京から京都への流れの後、別府へ向かわせるために大阪港から別府港まで運航する関西汽船を興しました。
別府に訪れた外国観光客の受け入れのために洋館が必要であり、洋館の亀の井ホテルをつくりました。

観光では有名な話として、全国で初めて女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を始めました。
また高崎山の猿の餌付けをするなど、高崎山観光の礎を築きました。

別府への誘致も別府市に別府宣伝協会をつくり、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズの標柱を富士山山頂付近に建てるなど、全国各地にも建てて回りました。

「別府の奥座敷」として、由布院温泉にも「亀の井別荘」を建て、与謝野鉄幹・晶子夫妻も滞在するなど、文人墨客を招くなど、別府とは違った温泉地として特色を打ち出しました。
後の由布院運動で由布院温泉は新しい姿を見せ、映画祭、音楽祭などの文化活動や牛一頭運動・絶叫大会、地元の食材を宿が観光客に提供するなど産業活動などの展開は熊八氏のDNAが伝わったようにも思えます。
今では由布院といえば、一大観光地として日本で多くの方に知られるまでになっています。

アイデアはこれだけでなく、別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎間に観光自動車道を提唱し、現代の九州横断道路が開発されました。
当時はやまなみハイウェイとも呼ばれましたが、高速道路と間違われてはいけないので、現代ではやまなみハイウェイの名称は使われていないようです。

熊八氏の九州横断道路構想にはまだ続きがあり、アメリカから日本、東京~京都~大阪~別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎へ、さらには長崎から上海ルートを通して中国までのアイデアがあったようです。

熊八氏によって別府は大きな発展を遂げ、戦後は関西汽船なども利用しての入湯団が続々と訪れ、別府温泉はかってない賑わいをみせ、周辺の商店街も活気を帯び、不夜城とまでいわれました。

為替が変動制になる前の昭和40年代ころまで、別府は外国観光客で賑わいをみせ、日本交通公社(現JTB)の外国人向け観光ツアー英語ガイド付き(サンライズツアー)などによる別府市内(地獄めぐり・高崎山など)観光が好評を博していました。
当時は海外旅行者数においても県庁所在地の大分市よりも別府市の方が渡航者数が多いなど、別府市はインバウンド・アウトバウンドともに日本の国際都市の一つの町でもありました。

熊八氏は壮大なアイデアと実行力を持ち合わせた実業家でした。
氏の功績は別府に大きな遺産を残し、観光都市別府の発展に寄与しました。